昭和44年8月1日 朝の御理解
第41節 信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。
心からも練り出すがよい。信心は話を聞くだけが能ではない。信心は話を聞く物だという事が、ここで感じられますね。話を聞いて助かる道と〔 〕。話を聞いて助かる道。信心は話を聞くだけが能ではない。もう、ここには,私はその、御教えはどうもこう、合判したような感じ、御理解受けておりましたけど、やっぱり同じ物ですよね。信心は話を聞いて助かる道。
という事も、信心は話を聞くだけが能ではないという、ね。だから、話を聞くという事だけではないというような。だからやはり、話を聞いて助かる道って言うのが本当だと分かります。教祖様は、方一歩には、話を聞くだけが能じゃないと仰る。方一歩には話を聞いて助かると仰る。何かそれを、不自然な「 方?」したましたけれど、そうではないですね、やはりこう。信心は話を聞くだけが能ではない。
もうすでに、信心は話を聞かなければならん。けれども、それだけではいけんのだという意味なんですね。聞いただけではいかんのだと。話を聞いて助かるという事は、ね、話を聞くことによって、今まで知らなかった天地の道理が分かり、御恩徳が分かり、ね、神様のお心が分かる。ね、それがなら、分かっただけではいけないのだと。
それが行の上に、生活の上に現される為には、やはりそこに自分で工夫をしなければならない。ね、商売人にも向くように、お百姓さんにも向くように、務めの人にも向くように。ね、だから同じという訳にはいかんのである。そこで命名が、受ける方の側がその話によって、いろいろ行じ、いよいよそれを工夫させてもろうて行くところから、ね、様々な味わいの違ったおかげにもなって来る訳である。
信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。だからここ、わが心からも練り出すがよいと、こう言うておられる。最近は、大変信心共励というのが盛んになり、命名、信者同士で話し合いを、信心の話し合いをする。まあ、おかげを受けた人達が色々と、ね、そういう信心ではおかげにはならん。こういうような生き方にならなければ、おかげは受けられんという風に、まあおかげを受けた人達は、ある意味において自信と言うか、確信を持って、その伝える。ね。
そうかなあと。と、ただそれをです、なら鵜呑みにしただけでは練り合うという事にならん。最近、久留米の石井清さんの話を聞いてから、信心を止めた人がある。いわゆる、なるほど石井清さんは月に一回か二回かしか参ってきません。ね、そしてその、まあ、一つの道理とでも申しますかね。例えばこの人の信心を先日も聞いておりますと。不平不足を言うたり、思うたりする事はね、いわば、おかげを断るようなものだという意味の事を言ってました。まあ、あの人流に話しております。
だから、もう信心しよってから不平不足を言うたり、思うたりしておる人達、もうおかしゅうしてたまらん風です、清さん「 」。もうこれだけで、私は参らんでんおかげ頂いとるち「 」。しかし、これに徹してる訳ですね。そして色んなその、物の道理といったようなものを、やっぱり身に付けておりますから。確かに、本当にそれだけでも出来れば、もう絶対おかげです。
だからもう、その毎日毎日朝参りを参り、沢山な金を使うたり、時間をかけたりしてお参りをすると、もうそれだけでも本当におかげを受けられると、まあ思うたんです話を聞いた人達は。だから、まあある人がお話に、そのお参りせんけん、この頃ちっと見えんごたるか知らん、参らんでんおかげ頂きよる。もし、おかげを落とした時には、私は自分で自分の責任は取るといったような事を言うたと、こう言うのである。
ね、ところがですね、信心がその、おかげが目的じゃないですからね、実際は。この辺から、本当は練らにゃいかんとです。例えば、そういう意味合いで石井清さんなんかは、やはり得意な「ぞんざい?」ですね。言うならば、もうそれを本当にやって退けれるような物を持ってるです、けいこせんでもですね。もう、やはりある意味での変質者じゃなかろうかと思うくらいに、もう人、人が腹かかにゃんごたる時にニコニコしとち言うんですから、まあ何と言うんでしょうかね。まあ信心の、言うなら変態と言うてもいいでしょうね。
そんなのがありますよね。叩かれる事に非常に快感を感ずる、変態です。ね、ですからそういう人の真似は誰でもは、だから実際は出来んのです。ね、それは、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るから。もうすべての事を喜んで行きゃ間違いない、苦労せんで済む。さあ、ところが実際その事に取り組んで見るとです。本当に、ここを、こう喜んで行きゃあおかげが受けられる事は分かる。けれども、喜べない。分かっておっても喜べない。ね。
分かっておっても、どうにも出来ないといったような、昨日お届けを私は幾人、同じようなお届けを聞かせてもらった。中島の光滝さんがお参りした。ほれでここで、今日また、えらい暑かねって私が言うたら、頭上げた同時に泣き出した。だから、今日は暑かねぐらいじゃ話しちゃいかんとばいなと思うて、何時でんならそれでヨカて。顔を上げて私の顔を見た途端に涙が溢れてきた。
そすと、もうその、まあ清さんじゃないけども、非常にその、まあ皆が日参り、お参りするとおかしいぐらいな事を平気で、まあ言う人なんですけれど。なかなか、またその、その人の物を持ってるんですよ、やはり。性格の上においても、考え方の上においてもですね。例えば、先日からあの、蜂に頭を指された、後ろ「暴走?」。ね、そん時にその、自分の心の中に、ハッと浮かんで来たのが、もう一分の時間がおかげを受ける、受けないという事になるからねという事をその、思い出したて。それで自分が一分間早く来とりゃこの蜂に刺されじゃった。一分遅かりゃこの蜂に刺されじゃったという事をとっさに思えるような物を持ってるんですよ。
ね、自分が「 」蜂に悪い事をした訳でもないのに、刺したんだから。これは神様の御都合だとすぐ思うた訳です、だから。ね、自分がこの蜂を殺そうと思うたけん、向こうも腹かいてしたというんじゃない。ただ、自分がちょうどその時間に行き合わしたから、蜂が刺したのであって。これは、神様の御都合とすぐ思うた。ね、「 」の蜂が、その地に止まったから、言うならば踏み殺してもいいところじゃけれども、そういう気も起こらなかったと、こう言う。ね。
そういう、いわば心。本当にそういう考え方がすぐ出来る人なの。おかげで、何て言うんですかね。まあ、一年来の、頭の重たかった大変な病気をしたとでございましたからね。それを、おかげを頂いて、何か刺された時にジーンとした感じがしたそうですが、それっきり、こう頭がすきっとしたというようなおかげを頂いて、あくる日お礼に出てきた。ほらあもう、神様から注射して頂いたたいと。そういうような、例えば信心巧者ですね、いわゆる。なら、一人でもです、もう昨日ばかりはどうにも出来ない。それが自分に分かってるち言う。
前の日に、泉さん家の長男です。長男「夫婦?」何かこうお話。まあ、何か色々な、そのこまごつを言うたか何かでしょう、嫁子か何かに。したら、その長男が言う事がです。お母さん、あんたのごとグズグズ言うならば、もう年とったっちゃ見てやらんばのち言うたち。
初めの間はそうも感じなかったけれども、それを考えれば考えるほどです、とてもそげな事を冗談にでも言うこっちゃない事を平気で息子が言うたという事をですね。もう、それからもう、クーっとなってしもうてから。もう、とにかく人に物も言うごとないようになった、息子達が4人おります。だから、何があんたが見てくれんで誰が見てくれるばのという風に「も、思いも言いもしなかったが?」、本当に言うならです、泉さんて、そげな事はね、そりゃ見てもらわんでん良いよと。
けれどもね、そげな事は冗談にでも言う事っちゃないよと、言えない人じゃないですこの人は、普通だったら。ね、私はあんたどんが見てくれんでも、私には神様がある。ね、例えばお父さんが亡くなるでこの方、本当に神様一筋におすがりして、このおかげを頂いて来たんだから、この神様にすがっときゃあ、誰が見てくれる、見て、そげなこつは問題じゃないという事は、もう分かりきっておる、言えない人じゃないの人がです。もうその息子の一言で大ショックを受けた、ね。
あくる日、昨日です。ですから、まあ電車でこう回って「来、来?」電車の中でも、それこそ、それを思うたら涙が溢れるぐらいに、何か知らんけんどうにも出来ない。ここに来てもクーっとしてどうにも出来ん。頭を下げりゃ先生が、今日は暑かねち「言う ?」、暑かねの「涙じゃなかった?」訳です、昨日は。頭を上ぐる途端に涙、泣き出した。何を、例えばこつが起こったとやろうと思うたら、その息子がそげん言われたと、こう言うたのである。
ほう、これ何時の似合わん、あんた、こっちゃった。ばってん、さあ自分でどうにも出来ないのである。ね、そこにですね、私は日頃、練って練って練り上げとかなければいけないという事を、自分の物に、分かっとるだけじゃいかん、自分の物にしとかなければいけないという事である。ね。
これも昨日、石井信司さんが、ちょうど御祈念ちょっと前に参って来ました。今日私はもう、今日ちった、えらい早う帰ったねって、参って来たねてところが。えー、実はまた一遍帰ってから、また家のば自動車に乗せちから参り直しますばってん。もう今日という今日ばっかりは、もうどうにも心の「すえかにゃん」事があって。
先生が、もう大きゅうなれ、大きゅうなれと仰るから、もうその大きゅうなるという事に取り組んでおる私ですから。これはもう大きゅうなって、豊な心で受けて行けばいい事は分かりきっとるんですけれども、どうにもこうにも出来ない。よっぽど言おうかと思ったけども、もう言うたんじゃと言うて、もうそれこそ、もう我武者羅に金光様、金光様で出て来た。
表に出た途端にもう、ガリーッとその雷さんがなったそうです。そしてもう、目先の面ぐらいに、田主丸の辺は昨日は、その時降ったそうです。もう途端、表に出た途端。ね、ですから、はあ神様が私のこういうような考え方をお叱りになりよる。もう、そげな事を言ってお届けするがとあるか。ま20~30分、一時間してしたら、もう一時の御祈念じゃないか、御祈念にどん参ってスッキリせろと言いござる事が分かるち言うんです、自分でも。
自然の、例えばこういう働きといったような物を大事にして行きよるから、自然のそうした働きがです、分かるち言う。私が、ちょうどもう下がっておりましたから、奥の間におりました。ね、そしてその、信司さんがそれば、その事をお届けしようとした途端にまた、ほれこそ、ほんな一丁雷でしたけど、もうそこに「おてたじゃろう?」ちゅうごたるその、雷なったです。はあ、もうそれでも思うたち言うんです。
いよいよ、神様がこげな事を親先生の耳に入れる事っちゃあない。自分で処理できるじゃないか、自分が大きゅうなれ、なりさえすりゃ問題ない事じゃないか、これによって大きゅうなる事じゃないかというようにですね、その思うたち。けれども、さあどうにも出来ないと言うのである。ですから、まあそれを前置きしてから言うんですよ。同じ事を繰り返し、繰り返しお届けして相すいませんけれども、やっぱり親先生に聞いて頂かなければと言うのです。
なるほど聞いてみりゃあ、まあ本当に情けない事でもあろう、歯痒い事でもあろう、本当に腹の立つ事だねという訳なんです。しかも、それがずっとこう、方一歩の指を、で折るぐらいに重なって、五つくらい重なってあるです。どの一つだって、例えば若いけれども、自分は店主だ、自分は社長だと。その、社長じゃ、または店主である自分を、もう丸きりなりがしろにしたような。または、軽蔑したような、ね。という訳なんですね。話を聞いてみると、もう本当に丸きり信司さんを子供騙しのようなですね、もうちょっと取って捻るような事をしてる訳です、店員さん達が。
もちろんその、昔からおる店員さん達ですからね。もう小さい時から、信ちゃん、信ちゃんで来とるもんですから、今でも、やっぱ信ちゃん、信ちゃんち言う、社長つかまえて。ね。自分としては、商売の道に一生懸命研究し、信心の上でもおかげを頂き。ね、最近は信心の修行の上にも一生懸命のものを持っておかげを頂いて行かなきゃならんという事に一生懸命精進しておる。だから自分としては、まあ、だから自分が嫁子を持っておらんから、これどんがこげん、馬鹿にするなら、これはどうでんこうでん、早ういっちょ嫁子もらわなでけんちいうな、「事を昨日?」言ってました。
もう20。それはですね、本当、浮ついた意味じゃないですよ。これどんが本当に、自分が嫁子持たんから、このように軽く見るなら、これは本当に親先生、嫁子をもらわにゃいけんていうような意味の事を言うんですよ。丸きり女店員達までが、その軽うみた生き方、ね。例えば、9時なら9時に出勤して来るとに、11時頃にどん出て来てから。もう、それをもう、当たり前のようにしておる。
そしてその態度を見た、ですね。どうもすいません、遅うなりしましたとか、何とか言うて来りゃこっちの胸は下がるちいう訳です。ね、もう見す見す嘘、ちょいと私は何処どこまで、こんな用件ば持って、よく何処どこまで行って来ますもんねち言うてから、まあ自動車に乗って店員が行ったち。ところが、その店員に、その用事が出来てきたから、あああの人は何処に行っとるけんで、なら電話かけて呼んであげましょうち言った所、そこ行っとる所に、言うた所に何処ん行っとらんげなもん。
ね、そして帰って来てから、何処に行ってこう行ってから、こうじゃった。あそこでは集金でこげん暇行ったち、しらごつばっかり言うげなもん。それがもう、そこの一番の大将ち言われるぐらいなその、番頭がですね。もう一時が万事にこの通りだろうかと思うたら、もうどうにも。私は電話かけたばのち、あんたおらんじゃったじゃんのち、よっぽど言いたかったけども、堪えとったという訳なんです。
ね、そしてそこで、私が大きゅうさえなりゃ、そういう事ぐらいな事は自分の心の中に泳がせりゃです、問題じゃない事は良う分かっておりますけれども、どうにも出来ん。まあだそれが、もっと深刻な問題が五つぐらい重なっとる訳です。共励会の「時は?」そういう問題がいつも出て、もうそれこそ自分の物になってしもうとるようだけれども、なっていない。ね、問題あった。はあ泳がせる、もう言うちゃならん。言わずに、例えば黙って祈って、黙って与える。そんな事なんかは、もう十二分に聞いてもおりゃ、知ってもおるけれども、どうにも出来ない。ね。
そういう時に、わが心からも練り出すが良いと。ね。どういう御神意であろうかと。だからね、話を聞いとっても、だから応えの私はしようがない訳ですよ。本人は知ってる、分かってる訳なんですから。ここはこうするべきだ、こうあれば、おかげを受けられ、受けるんだという事は分かってるんですから。それけん、ならそこば出来るごと精進する他なかじゃんのと言うより他にないと訳です。自分も分かっ、そう言うてから、ここは自分、いよいよ自分が大きくなるに他ありませんけれどもち言うて言いよる。ね。
ほんで私それを神様にお取次ぎさせて頂いた。そしたらね、あの、小学生達があの、昆虫の採集をするでしょう。そしてそれをあの、標本を作るでしょう、こう何かね。それが小さいですね、えーまあ、あの我のごたると我のごたるとやらですね。小さい虫、昆虫は昆虫ばってん、小さい虫んごたっとをいっぱいその、採集してから、してある所ば頂いたの。そしてですて、ほら珍しい、もう大きな蝶々のですね、私も見た事もないごたる感じの、その蝶々がですね、をその、取ってある訳です。だから、もう他の小さい、我のごたる小さい昆虫なんかと言うよりも、立派な、いわば昆虫が採集出来た訳です。
もうやっとかっと堪えて、まあ採集だけはしたばってん、それを、んなら腐らんで済むように注射やらするでしょう、ね。あの子供達がやってます、乾燥させる為に。それを、それをやりきらんでおる、といったような所を頂くんですよ。だから、あんたが今も言うたようにね、もう僕は今そこに取り組んでおると、大きゅうなる事以外にはない、黙って祈って、黙って与えて行く以外にはない。だから、その小さい我ぐらいな小さい昆虫の場合は、それがずうっと出来ておるけれども、ちょっと、まあ信司君の為には大きすぎたんです、昆虫が。ね。
だから、分かっておる事が出来ない。そこで、そこ親先生からそれを、まあ注射してもろうて、それを標本の中に置けれるおかげを頂いた。それを聞かせて頂いておりましたら、もうこげん楽になるもんばというように、心が楽になって来る訳。はあ、本当、僕は今昆虫採集しよる。しかも、こういう珍しい、こういう素晴らしい。
例えば、これが十年後、二十年後にこういうような問題の場合でも、私はこういう風に有り難く、ここんところは言わずに済んだと、後の者にでも話してやれれるくらいなです、大きなものを物をここに取っておるんだけれども、それがどうも自分の胸、自分の力にとっては、どうにも出来なかったと、こういう訳なんです。御理解にね、昨日の「とばん?」に書いてありますあの御理解。「しちょうゆそつが鎮台ならば」、ね。蝶やトンボも鳥の内て。ね。自分の、自分が小さいという事をです、ね。ここは自分が大きゅうならなならん。
けれども、自分が小さい為に、自分が胸にはばからん。そこを神様から叱られたり、笑われたりしておるんだと。笑われたくなかったら、大きゅうなる以外にはないじゃないか。さあ、大きゅうなれ、さあ力を受けて行けと、例えばそういう風に御理解頂いたら、本当に分かりきっておる事がです、いよいよ分かったという感じ。さあ、なら僕は今からちょっと帰ってから、また後お参り来よりますけん、また出直して来ますと言うて、帰りましたんですよね。して、また一時の御祈念に出て来ておりましたがです。
もうお互い本当に分かりきっておる事だけれども、それを何時も失敗とも感じずに、それを失敗して行きよる。私、そういう意味合いで信司くん偉いと思いました。ね、どうにもこうにも出けん、もう煮えくりかえるごたる物をです、言わずにそれを、まあ思うては来たけれども、それを一遍お取次ぎを頂いて、自分の心を。それを自分の大きくなって行く為の、それにして行こうと。
そして、御理解を頂いて、そうだ、ね、「 」笑われてるのは、あれは、もちろん、まあ「やえい?」して出けた唄でございましょうけれどもです。小さいという事、ね。ですから、問題は自分が大きゅうなる以外にはないのだという所からです、ね。まあ、その間にどのくらい、練って、練って、練ったか知れません。だからその、練るという事を忘れておるから、とっさにちゃんと言うてしまうのじゃないでしょうかね。
話を聞いて、日頃、話を聞いて分かってる。ね。信心は話を聞くだけが能ではないという事はです、ね、話を聞いただけではいけんのぞという事であって、これは話を聞かんでも良いという意味じゃないです。やはり、話を聞いておらなければ助からん。しかもその話を聞いておる事をです、本気にそれに取り組んで。ね、それを何時も練って行こうとする姿勢が必要だと。話を聞いておるから、信司くんの場合でも、光滝さんの場合でもです、分かってる。
ね、ここは自分が一つ大きゅうなりさえすりゃ問題じゃない事が分かってる。だから、分かっただけじゃいかん。それを、例えば何時間係りで一生懸命練った。そこには、もうすでに神の声も聞いておる。主人は、ね、例えば石井さんにその、雨とか、雷とかを持ってです、教えておられる。それでもやはり、スッキリしない。そこに、お取次ぎを頂いた、御理解を頂いた。
そしてそれが、ようやく標本集めをしておる自分であったと。ここを自分は取り組んで、けいこをしておる自分であったと、本当にスッキリ分かった。ちいった難しかったけれども、本当に素晴らしいけいこをさせて頂いたとして、帰る事ができる。ね、だから何時もその事にですね、このわが心からも練りだすが良いという事はです、共励会なんかの時に、人の話どん聞いちからね、それを共励しとるというような事だったら、それは話を聞いただけなんです、共励しよるとじゃないです。
ああ、あの人はとても良かこつ言わっしゃった。どこの信者さんな、なかなか素晴らしい話さっしゃった言うて聞いておるだけじゃない、共励にはなっとらん。共励という事は練り合うという事なの。ね、それが常日頃、練って、練って、練り上げたその事をです、共励では、私は発表するもんだと思うですね。だから、共励会と言うよりも、むしろ発表会という風がいいかも知れませんね。
もう日々練っておる物でなからにゃいかんです、ね。一つの問題が起きる、さあ、どっこいこれをどう受けるのが本当かと練る、練ろうともしないでです、それを自分の感情とか、自分の思いだけで、パッパッとやって、はあまた失敗したという事になったり、それを失敗とも感じんで当たり前のようにしておったんでは、何時まで立っても信心が伸びないて。ね。この前の竹苦世会の時に、出掛けにお母さんからこう言われた。皮肉を言うちゃる、お母さんが。
ね、それを電車の中でずうっと考えた。ね、本当言うなら、出掛けぐらい、その早う行ってこんの、早う参って来んのと言うてもらいたかった。ところが、たった月に一回しか参らない自分に対して、あげなひどい事をと、思うような事を言われた。その事が、もう電車の中でもう、一生懸命いわば練って来た訳です。ここに着く頃にはですね、帰ったらお母さんにお礼ば言わんならんちゅうごと変わってしもうとった、その事に対して。ね、ああそんならお母さん、私はもう止めまっしょうと、その言わにゃん事ですよ。ね。
その後において、またお母さんが参って見えてから、その自分が言うた事に非常に引っかかっちゃったごたる風ですもん。ね、それけん家の嫁がどげな事話しましたじゃろうかち言って、ここへ来なさったですもん。とてもおかげ頂いておりましたよち、「 」おそらく自分の悪口を言うたじゃろうと思うちゃる訳です。家の嫁がどげな事話しましたじゃろうかち言うてから、聞きよりなさる。
けれども、嫁がそれを見事に、ちょいとは出来なかったけれども、電車で来る間に自分の心の中でピシャーッと、帰ったらお礼を言いたいほどしのものに、練って、練り上げておった。「めん?」という事はそうだと私は思う。それが、日頃話を聞いておってもです、それがとっさには出来なくても、練って行きよる内に、それが、これはお礼を申し上げねばならない事だ、これはお詫びを申し上げねばならない事だといったような答えが出て来るという。ね。
私はこの、ね、話を聞いて助かるという御教えに反してです、話を聞くだけが能じゃないというのは、何かもう大変、こう反対の事を教祖は教えておられるようにばっかり思うとった。今日の御理解を頂いて初めてです、やはり、これは話を聞くだけが能ではないという事は、ね、話を聞かなきゃいけん。けれども、聞いただけではいけんのだという事なの。「 」、でなかったら、最後に言うてあるですね。練るという事がですね、練られんのです、日頃聞いとかな。そうでしょう。
練ろうと思うても、何を焦点に練るべき。日頃頂いておるそれを持って、私は、練って行かなきゃならん。今朝から私も練っておる事があるんです。お夢の中にね、ちょうど、まあ見かけは1合ぐらい入りそうなお神酒とっくりなんですよ。お神酒とっくりと言うよりもあの、平たいんです。こう、あれ「じきがん」ち言うですかね。もうそれが、もう何とも言えんその、まあ、古風なですね。もういわゆるその、まあ美術品にと言うても良いほどしの立派なもんです。
それが、はあこれは素晴らしいち言うのがですね、もう私のこの紋がそれにいっぱい入ってるんです、梅鉢の紋が。ね、こういう、もうどっから自分な手に入れとったじゃろうかち、自分でも分からんとです。私の物ではあるらしい。ところがそれを、こうして見たところが、その陶器ですから、熱いですから、実際は形は1合ぐらい入るようにしとるけれども、中には、これは5酌ぐらいしか入るまいというビンである。ね。
そして、こうやって、これは本当に、何時どっか、どっからか「 」これはもう何とん言えん、素晴らしいと言ったようなね、その感じの物なんです。ちょうど、こういう感じの物。この、これは元右衛門の、この、から頂いた焼き物。ちょうどこういう感じなんです、「ひこいね?」。もう何とん言えん私好みのもん。で、これは、こげな、いわば骨董品のごたる風な感じですね。で、こげなつ、どっかいつ「戻った?」じゃろうかと。はっ、梅鉢がいっぱい入っとるて、模様の中に、「ざに?」。
で、私それ持ってから、こう見たところが、一合ぐらい入るような形じゃけども、中には五酌ぐらいしか入らんという感じであり。ちょっと、こうそこへ引っくり返したらですね、太宰府のね、何々という醤油屋さんの進物品じゃったばいのという事が、裏にその醤油屋さんの名前が書いちゃる。ね、昔、酒屋さんとか、お醤油さんなんかは、お醤油冊子とか、「 」とかを神仏にしたもんですよ。ですから、大した「 」じゃない事が分かった訳です、ね。
太宰府のですね、何々という醤油屋さんから、進物で誰かが昔もらっとった物。だから、言うならそれは、まあ醤油冊子じゃったかもしれん、醤油冊子じゃった。それを私は、それをその、きれいにも洗って、自分ではそれをお神酒に使っておるという感じなんです。どういう事じゃろうかち言って、私が思いよったら、どっからこれはもろうたじゃろうかち思いよったらね、原口正人って頂いた。これは、椛目のほんな向かいに、あの時代に向かいにあの、お店があったでしょう。あそこのご主人の名前が原口正人って言うんですよ。
ね、言うならば、腹ですね、心の中。腹と口とがね、私があの、正人と、正しい人と書いてあるから、ね。えー真の人という風に頂かにゃならんじゃろうと、まあ私は思うたの、すぐ、これは分かった。けども、この全体の事をです。神様は何を私に分からせて下さるだろうかと思うて、まあ今朝、その事を、まあ練っておる訳でございますけれどもね。ん~、ように例えばお夢一つ頂いてもです、それを練って行かなければいけません。夢でも、「あでやおろかには」見るなと、と仰るぐらいですから、神様が教えて下さったんですから、それを本気で練ってみろうという気にならにゃあいかん。
御神意を頂きゃすぐ分かる、お取次ぎを頂きゃすぐ分かったっちゃです、それじゃいかん。やっぱ、自分で練って練り上げな。だからここで、皆さん御心眼を頂いて、なら色々言うけれども、私はそれを教えません。自分で良うと練りなさいち言うて、せっかく頂いたんじゃから。と言うようにですね、練りだすが良いと仰る。ね、今日は御理解41節を、たとえば、話を聞いて助かるという御教えとこの御教えは、何かこう不自然を感じておったけども、決して不自然なものではない。同じ事だと。
ね、いわば、あのお話、あの御教えの次の物だという事です。ね、話はしっかり聞かじゃと、でけん。御教えを受けにゃいけん。ね、けども聞いただけではいけんのぞというのです。聞く、話を聞くだけが能ではないぞと仰るのは。ね、わが心からも練り出すが良いと。聞いておかなければ練り出す事すらが出けんのです。ね、まあここから、今の事から言うならです。はあ、醤油屋という事は、醤油は苦労ではあるばってん、あれは一面紫とも言う。紫と言や安心の事。
原口正人という事は、腹と口とが一つで、正しい人であり、いわば真の人だという風に「 」考える。もちろん、お醤油どっくりじゃあるけれども、それを自分の心一つでは、お神酒どっくりも使われる。という風に、まあ部分的にはそういう、いわば練りだしが出来るんです。それでも、御理解日頃頂いとかなければ、そんなにとっさに練られんでしょうが。それが全体まとめたら、ならこれは、どういう事になるだろうかという風に、まあ私は、今日はその事を練らなきゃならんと思うんですけれどもです、ね。
話を聞いておかなければ、練り出すことも出来ません。お互いが、練り出さなければならないような問題に直面して、それを練りだそうともせずして、何時も失敗しておる。はあ、言わんでよかこつを言うた。ね、こげな事しちゃいかじゃったと。ね、する前に、日頃頂いておる教えを頭に浮かべて、ね。
そして、それを、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、いや、これはこうする事が、こうだと分かってる、日頃頂いておる。分かってるけれども、自分の心の中にそれを咀嚼する事が出来ない、自分の物にする事が出来ない。そこに、お取次ぎをまた頂いて、それを自分の血に肉にして行こうと言ったようなです、私は在り方がです、わが心からも練り出すが良いと仰るのは、そういう事ではなかろうかと思う、どうぞ。
末永信太郎 ( 5月21日 )